間奏のことば

 毎年四月にやすらぎの丘にて『大沢町戦没者慰霊祭』が執り行われ、平成27年をもって79回目となりました。

 慰霊祭において御霊をお祀りする為、松下行馬先生が作曲された継承歌『野末の露』を地域の合唱団である『やまびこ会』の方々が合唱されています。

 その間奏中に、大沢町の方々が御英霊や先人の方々に対する『ことば』を語りかける『間奏のことば』があり、その一部をご紹介したいと思います。

上田 豊子


私、お父さんて呼んだ事ない

甘えた事も、叱られた事も

お父さん、あなたもお父さんて呼ばれたの、

今がはじめてでしょう

思い出のない距離のある親と子

どうして?何故?


最後の日残しておいたひとつの乾パンを

仲間六人が分け合って食べ、

飲まず、食わずで戦い死んでいったと聞きました

せめてと、お父さんの命日に祖母と母と私は

お餅をつきました

届いたでしょうか?

戦地からの手紙私には読めないのです

見えなくなるのです、涙で

母のタンスにしまわれたままです


お父さんさえいきてくれてたら

戦争さえなかったらと

何度か繰り返された祖母の言葉


今戦争のない国で生きている事を

喜び感謝し

世界の国々から

戦争というものがなくなりますように…


第六十九回 平成十七年四月十六日

大東恵子


写真でしか知らないお父さん

お父さんと呼んだ事もない

そんな私をここまで育ててくれた母も元気です


お父さんの亡くなった東部ニューギニアだけで、

十三万人の御霊が眠られていると云う

広大なジャングルを昨年訪れ、

積年の思いが晴れました


壮絶な飢え、病と、想像を絶する苦悩の日々

今の豊かな生活があるのも


犠牲となられた先人たち

そしてこのやすらぎの丘の八十四柱の

英霊のご加護の賜物である事をしっかり胸に刻み

後世に伝える事が私たちの使命と思います


ここに感謝と哀悼の誠を掲げ

どうぞゆっくりとお休みください


第六十九回 平成十七年四月十六日

稲田 勲(代読 田場譲)


野村軍曹 わしや 稲田や 軍旗小隊で一緒やった 稲田軍曹や


ギョーサンの戦友がたおれたブロム街道突破のおりに

わしの身体が言うこと利いとったら 

わしが 三十八人つれて 切り込み隊に出たんや

わしの番やったんや 

あんた わしが動けんので 身代わりでみ~んな 連れて行ってしもた

だーれも帰ってこんかった


あの時の事は わしは 片時も忘れたことない

あんたらのおかげでなー 連隊本部は助かったんや

覚えとるか 毎日連隊旗の壕を一緒に掘った仲谷伍長 旗手の津村少尉も死んでしもた

もったいない人が毎日死んでいきよった

中隊で生き残ったんは5人ほどやった


戦争ほど 無残で

悲しいもんは ないなー

みんなのおかげで わしも八十を越えた よー生かしてもろた

おおきに ありがとう


 野村よ 仲谷よ 今度会うたらなー

温泉にでも入って うまいもん くうて ゆっくり 話がしたいなー 

もう負けいくさはこりごりや

孫らにこんな思いはさせとうない

平和が一番や ここにおるみんなも そないおもとるはずや

そやろ みんな


第七十回 平成十八年四月二十二日

ビルマへ出征前に撮影されたものと思われる

米寿のお祝いにて撮影された稲田さん


大東 すみゑ


今年も町内の皆様のお力添えにより、このような立派な慰霊祭を

して頂きありがとうございます。

夫、勇への呼びかけを戦没者の妻として、させていただきます。夫を生前と同じお父さんと呼ばせていただきます。


思い返すと昭和十二年支那事変、暑い頃だったと思います。市原のお宮さんで村の方々のお見送りを受け出征。二年程の戦地。昭和十六年十二月の大東亜戦争勃発迄休暇で

帰っていたのですが再び召集令状。元気で帰ってきてもらえるものと信じ、毎日陰膳をしてお父さんの無事を祈りました。


男の子であれば「勇治」女の子であれば「惠子」と名付ける様にと、戦地からの手紙を覚えていますか?女の子でしたよ。その子が六十五才にもなりました。

終戦から半年は過ぎていたと思いますが、戦死の知らせを受けた時は年老いた祖父母、

三人の幼子を抱え、私の目の前は真っ暗、奈落の底に突き落とされた感じで涙も出ませんでした。そして、泣いている暇もなかった様に思います。

五月と秋の農作業、冬はたき木作りと、母親でもあり、時には父親と、日々苦労の連続。一言では言い表すことが出来ません。

氷上郡春日町の垣内さんが、同じ部隊で戦友だったと、九死に一生を得て帰って来られ、お盆には毎年お墓参り、そして四・五年程度秋の取入れも手伝いに来てくださいました。


親戚、近所の方々の励ましに支えられ、何とか大東家を守って参りましたので、安心して下さい。今は、娘「惠子」や孫・曾孫に囲まれ、時には昔の思い出が走馬燈の様に駆け巡り、涙をしたりと余生を送っています。

こんなに長生きをさせてもらい、お父さんが見守ってくださるお陰と感謝しております。

六十年ぶりにお話が出来た様に思います。

ここに八四柱の英霊に追悼の誠を捧げ、この「やすらぎの丘」でゆっくりとお休み下さい。


第七十回 平成十八年四月二十二日

私の曾祖母である故大東すみゑ

出征前に地元大沢町市原の豊歳神社にて撮影


藤崎 潤(当ページ管理者)

 

おじいさん こんにちは 潤です。

曾孫の潤です。

そちらではお元気にされてますか。

曾おばあさんや 同窓だった幸田貢さん達と お逢いになりましたか。

こちらはおかげ様で家族みな健勝に過ごしております。

どうぞご安心ください。


おじいさん 私もおじいさんが戦死された歳と同じ歳になろうとしています。

先の大戦で五五七名の方が大沢から出征されました。

国の為 愛する家族の為に 日本から遠く 数千キロも離れた異国の戦場で

辛く苦しい戦いを強いられました。

八十四名の方々の命が 野末の露となられました。

残された家族の方々の 長く苦しい日々を、

この年でようやく理解できるようになりました。


願わくは おじいさんから直接

おじいさん達の生られた時代の話を お聞きしたかったです。


おじいさん 今を生きる日本人の多くが

おじいさん達が命をかけられた戦争の事を

そして多くの英霊の方々の犠牲の上に 我々が生かされている事を

知りません。


私も家族を持つ年齢となって

おじいさんの無念がわかるようになりました。

私はおじいさん達から託されたメッセージを

次の世代に伝えて行く事が

我々の責務であると思っております。


これからの日本の未来を託された一員として

一生懸命 おじいさんの分も生きて行きたいたいと思っております。

どうぞお見守りください。

 

第七十六回 平成二十四年四月二十一日

幸田 充代


今から六十数年前のあの日、あの時、突然届いた一通の手紙。

国家の方針により出征の命を受け、家族・友人・愛する人を残し、

戦場へと向かわなければならなかったこと。見送られた人、見送った家族も心はひとつ、

「命がけで祖国を守り抜いた!」この戦争体験を語り継ぐ人は

年を追うごとに少なくなってきました。


私の父は昭和十年より十二年間、軍隊生活をしました。大東亜戦争で三度の招集、ビルマへの派遣となり戦い、生と死をさまよいながら幾多の困難を切り抜けこの地に帰ることができました。そして、戦後生まれの戦争を知らない私に、ことあるごとに戦争体験を話して聞かせました。小学生のことの私はその内容は戦争映画の一場面を見ているような状況でした。


闇の中、実弾が炸裂する中を突き進んだこと。真っ暗闇の道なき道を歩き動物の餌食になろうとしたこと。ジャングル(シッタン)の川幅は広く竿一つにしがみついて渡った限界の行軍。

「命の奪い合いは本当に悲惨だ…」

最初は休止に一生、生きて帰れたことを英雄のように語っていた父の声がだんだん低くなり、小さくなり、「熱や怪我にうなされた兵隊ばかり、薬や包帯が全くなかった」「肩を組み背中に負ぶったあの友と、食料もなく水もなく何日も野の草をしがんだな。せめて最後には飯食わせてやりたかった…」


『山峡に とどろく音の数多く 自決の兵は日々増え行く』


心も体もぼろぼろ、体つきて自決された戦友の無念な思い、尊い命の死を悔やみ、いつも言葉を詰まらせました。普段厳格な父には想像できない光景を、時折私には見せました。

そして戦争の話の最後には「戦争の体験を語り継ぎ、いかなることがあってもこの事実は風化させてはならない。家族に会いたかっただろう、やりたいことがいっぱいあっただろう。無念の死を遂げた戦友の死を悔やみ、帰る事の出来なかった魂を、一生かけて弔い、供養することが生きて帰ってこられた私の責務だ。「神が私を弔うために帰らせてくれた!」と、いつも言いながら体験の話を結びました。


父は五年前に亡くなりましたが、その一年前は「らぽーと」さんでお世話になっていました。面会に行くたび聞くことは毎回同じ、「家に帰りたい?」「いいや。家に帰らんでもええから、あの塔へ行きたい。」と、いつも右手で忠霊塔の方を指さしました。自家用車に車いすを乗せ二人で何度かここに参りましたが、最後の最後まで、この忠霊塔のことが気になっていたと思われます。


忠霊塔の八十四柱の皆様、ふるさとでどうぞ安らかにお眠りください。

日本国を守ろうと、海に山に敵に、勇敢に向かって頂いた皆様。美しいふるさとを守らんと闘いながらも、家族の持つ我が家のもとへ帰れなかった命はどんなに無念だっただろうと思います。

そして、豊かで美しい日本、今の平和は、犠牲になられた尊い命、この「命の礎」のもと、自由で心配なく幸せに暮らせていることを、私たちは決して忘れてはならないと思っています。


忠霊塔、下段右の丸い石碑は、最初木で塔の形をつくり、墨で字を書きこんだものでした。

しかし「木は長持ちしない。雨にあたると朽ちてしまう。やっぱり石にしたい。」と、強く希望し、皆様の協力のもと、やり直し作ったものです。石碑は丸く磨き来世までも続く輪「平和」を意味しています。


最後に「たくさんの尊い命のことを忘れてはならない」という一途のおもいが詰まっている、この石碑に刻まれた短歌を詠み、今一度、今の平和に感謝したいと思います。


『海山に華と散りにし 益荒雄の 御霊留めむ やすらぎの丘』


第七十八回 平成二十六年四月十九日

幸田充代さん

遺品をはじめ、御父上故幸田貢様に関するお話等、情報収集に際して大変お世話になりました。

故幸田貢さん

ビルマより帰参された後、町内の慰霊や戦争体験継承の為にご尽力された方。

幸田さんの手記である

『ビルマ従軍記「野末の露」』は時系列でビルマでの足跡を書き残されており、今回まとめる上で多大な影響を受け、ビルマでの戦様を知る上でも大変貴重なものを残されている。


戦後70周年祈念冊子

伝えたい、大沢町出征兵士からのメッセージ
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大沢町 慰霊アルバム

慰霊祭動画 合唱

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