戦争体験紀(冊子内容)

 戦争体験継承冊子『伝えたい、大沢町出征兵士からのメッセージ』の一部内容を本ホームページ上で、随時掲載していきたいと考えておりその一部を紹介させて頂きます。

 また、本ページ『冊子配布について』にて下記ビルマ戦での冊子データをPDF

にて公開しております。併せてご覧ください。

お手数ですが文字が小さいため拡大してご覧ください

上記画像は、幸田貢さんの手記『野末の露』や、同じくビルマに出征された稲田勲さんの足跡、町内にある墓碑などの調査から、日付や地名、展開された作戦等を照らし合わせ、幸田さんの足跡を調査検証、それらを地図上に可視化したものになります。

 

この検証を通じて、戦没された方々の大よその戦没地の特定や、幸田さんや稲田さんが、どこでいつどの様な体験をされたのか、時々刻々と変化するビルマでの戦場での様子について、その詳細が浮かび上がってきました。

 

また、幸田さんは戦様について詩を詠まれており、ビルマでの壮絶な戦いを窺い知る上で大変貴重な資料です。

はじめに

 今回ビルマ戦を編集するにあたり、故・幸田貢さん手記の『野末の露』を軸とし、提供頂いた遺品や各種資料を元に、大沢町出身出征兵士の方々の戦場での足跡を辿っている。終戦以降、ビルマ戦に関して多くの方々によって書籍等に克明に記録されており、今回ビルマ戦における作戦内容等の詳細な解説は、必要最低限に留めている。

 ビルマ戦のいつ、どこで何があり、如何に過ごし、どの様にして過酷な戦場を走破し、九死に一生を得られたのか。幸田貢さんの、ビルマでの凄惨な実体験を克明に書き綴った、『野末の露』それを読み解く事で、ビルマで何が起きたのか、どうして我々と同じ大沢出身の方々が野末の露と消えなければならなかったのか、それを検証していく。(地名について 大東亜戦争時と現在とでは大きく名称が異なっており、ここでは資料との整合性を保つため、当時の地名を用いている。)

ビルマの地理

 ビルマ(現在のミャンマー連邦共和国)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接する国である。ビルマでの戦いは、ビルマ全域とインドのマニプール州、そしてタイの北部を含む、日本の約二倍にあたる広大な戦域で行われた。南北の最長距離は二千キロ、東西の最長距離は約一千キロ、国土面積は六十八万平方キロである。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れている。支流チンドウィン川を含むイラワジ川、シッタウン川(現在のシッタン川)、タンルウィン川(現在のサルウィン川)がビルマの三大河川をなしている。

 気候は熱帯モンスーン気候である。五月中旬から十月までは雨季である。雨が一日中降り続く事はあまりないが、断続的な激しい降雨にみまわれる。特にアッサム州からアラカン山脈に至る地方は年間降雨量五千ミリに達する世界一の多雨地帯である。雨季には河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となる。十月末から五月までは乾季である。シャン高原では最低気温が氷点下になることもある。雨季入り直前の四月下旬から五月上旬には酷暑となり、平地では摂氏四十度を越す日も少なくない。乾季には地面が固まって車両の通行は容易となり、機械化の進んだ連合軍にとっては有利な戦場となるが、機械化が遅れていた日本軍にとっては塹壕を掘ることもままならなくなる。

ビルマ戦 概要

←ビルマ戦における日本軍参戦兵士数・戦没者数・生還者数

 

 一九四一年(昭和十六年)の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧、連合軍を、印度、中国へと退却させるに至る。しかし、連合国軍は一旦退却したが、昭和十八年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的な反攻作戦に転じた。


 昭和十九年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、アウンサン(現アウンサン・スーチー氏の父)が指揮するビルマ国民軍は昭和二十年三月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命する。ビルマ国民軍は日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となる。

 

 日本軍のビルマ方面軍は、軍司令部三、飛行師団一、独立混成旅団三、軍直轄部隊約二二〇、海軍根拠地隊一、の合計三十三万人の兵力をこの地域に展開し、東からの雲南遠征軍、北からの米支連合軍、西から英軍という優劣な東南アジア連合軍に対し、悪戦苦闘の末、約十九万名は二度と祖国日本の土を踏む事はなかった。

大沢町出征者所属師団

故稲田勲さん 幸田さんと同様ビルマに出征された

 

 第五四師団は、兵庫・岡山・鳥取の三県を徴兵区とする常設師団として留守第一〇師団を基幹に姫路で編成された。大沢町より出征された方々のその多くが、この第五四師団に属されていたと推定される。(野末の露・稲田勲さん提供資料より。故幸田貢さんは第五四師団第一野戦病院隊。稲田勲さんは第五四師団歩兵第一一一連隊〈姫路〉)

 

 第五四師団は当初、姫路に在り中部軍に属していたが、昭和十八年二月に動員され南方軍第一六軍に編入された。さらにビルマに派遣され緬甸方面軍の直轄部隊としてビルマ南西部に駐屯していたが、昭和十九年一月、新設された第二八軍に属した。一九四四年二月、第二次アキャブ作戦に参加し英印軍の堅い守りを突破できず退却。インパール作戦の敗退により英印軍の圧迫を受け、昭和二十年四月にイラワジ河を渡りペグー山系に退却し、さらにシッタン川向け後退し、シッタン川を渡河してまもなく終戦を迎えた。

 

 ビルマ北部にて戦没された方々は、多くの方はミイトキーナの戦いに参戦されたと考えられる。ミイトキーナの戦いがあった昭和十九年五月時点で五四師団は、ペグー山系に向けイラワジ河南下を開始しており、戦没された方々は五四師団から分遣されたか、出征時より第三三軍所属第一八師団、または第五三師団に属されていたと推定される(故小西義雄さんは第一八師団歩兵一一四連隊第八中隊)

 

 第十八師団は昭和十二年九月に小倉において設置され、支那事変以降中国へ。昭和十六年南方に転用され、マレー作戦・シンガポール攻略戦に従事する。シンガポール陥落後は飯田祥二郎中将の第一五軍に移り、ビルマ攻略戦に参戦する事となった。昭和十八年十月からフーコン河谷のニンビンにおいてレド公路において新編中国軍と交戦するが、アメリカ軍に支援された新編中国軍に包囲された為補給が途絶え、栄養失調とマラリアによって三千人を越える戦病死者を出した。また、分遣しミートキーナに在った歩兵第一一四連隊は連合国軍との交戦で二千名以上の損害を出した。

 

 この時、歩兵第一一四連隊は第五六歩兵団(第五六師団の歩兵団)の指揮下に入っていたが、第五六歩兵団長の水上源蔵少将は、昭和十九年八月、残存将兵に包囲を突破し脱出するよう命じた後自決した。第十八師団歩兵第一一四連隊は他に拉孟守備隊(拉孟・騰越の戦い)にも兵力を派遣していたが、この守備隊も九月七日に玉砕する。第十八師団のビルマ方面参加兵力は三万千四百四十四名であったが、二万名以上が戦死している。慢性的な物資欠乏の影響はどの部隊でも同様であったが、ビルマ方面に展開していた連合軍が「菊」の名を冠する第一八師団との交戦を名誉としていたことも戦死者を増大させた一因とされている。

ビルマでの主要作戦

大沢町出征兵士 ミイトキーナの死闘

 ビルマ北部では昭和十九年五月十七日、ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し奪取した。ミイトキーナはビルマ北部最大の要衝であり、インド・中国間の空輸ルートの中継点でもあった。守備兵力は丸山房安大佐の指揮する歩兵第一一四連隊だったが、各地に兵力を派遣し、手元の兵力はわずかだった。しかし、丸山大佐以下一致団結、よく連日の激しい攻撃に耐え、陣地を一歩も退かず、昼間は空爆より巧みに対比夜間は切り込みにより兵器弾薬等を奪った。連合軍司令官ポートナー准将は次第に戦況を悲観視、日本軍に対して恐怖心さえ抱き始める程であった。


 故向山弘さん・小西義雄さん・畑中三郎さんは、それぞれ、このミイトキーナの激戦によって尊い命を奪われている。向山さん・畑中さんは四月中旬に、ミイトキーナ北方の英軍三千人が南下、その部隊と交戦中戦没されたと推定される。小西義雄さんは、丸山大佐以下ミイトキーナ守備隊に属されており、六月十三日から行われた連合軍の総攻撃の激戦の中、六月十七日に戦没されている。


 連合軍からの猛烈な攻撃をよく凌いでいるとはいえ、死傷者も漸増し、六月中の損害は約千名にものぼった。この危急に第五六師団から増援部隊を率いてかけつけた水上源蔵少将に対して、第三三軍作戦参謀辻政信大佐は、「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を送った。ミイトキーナでは、ガラハッド部隊と中国軍新編第一軍および新編第六軍の攻撃を、水上と丸山の指揮する日本軍が迎え撃ち激闘が展開された。守備隊は約八十日にわたり、米支連合軍の攻撃に対し、雨季中に激闘を続けたが、連合軍は空挺部隊、地上挺身隊の支援もあり、兵力は逐次増強していく。それゆえ戦力の差は如何ともし難く、損害が続出、七月下旬に最後の段階を迎えるにいたった。日本軍は限界に達し、八月二日、水上は患者、次いで歩兵一一四連隊長以下約八百名を、イワラジ河を渡河させバーモに向かい後退させた後、死守命令違反の責任を取って自決した。

完作戦・ラムリー島の戦い

 ビルマ南西部ではイギリス軍第十五軍団がアキャブへ向けて前進していた。第二八軍(第五四、第五五師団)は既にここを撤退しており、アキャブは昭和二十年一月三日陥落した。次いでイギリス軍は一月二十一日、航空基地確保のためラムリー島(ラムレー島)へ上陸し、約一ヶ月の戦闘で日本軍を撤退に追い込んだ。稲田勲さん、故・幸田貢さんは共にこの完作戦に従事されている。一月初め頃、幸田さんは、タマンドからタンガップへ向かう道中で、大沢町の『山口敬一さん』と逢われており、会話を交わされた様である。このことからも、五四師団には多くの大沢町出身の方々が所属されていたと推定される。また、タンカップ到着時には既に、「毎日訪れる空襲の為、焼跡の様に一帯は黒く、一〇数件あった民家すらない。」とあり、既にこの時には、日本軍は制空権を失い劣勢に立っている事をうかがい知る事が出来る。(野末の露四三~四四頁より)


 二月九日、日本の第五四師団長の宮崎繁三郎中将は、長澤連隊長にラムリー島からの全軍撤退を命令した。輸送用に小発動艇四隻と徴発した小舟約百隻が送られたが、十一日夕刻に徴用小舟数隻が着いたほかは撃沈されるか四散してしまった。現地の猪股少佐は負傷者だけでも船で脱出させようとしたが失敗し、島内での遊撃戦に移ると具申した。それでも長澤大佐は撤退をあきらめず、泳いででも脱出するよう指示した。第二八軍司令官の桜井省三中将も、玉砕は避けるべきとの意見であったと回想している。第二八軍は第五五師団をイラワジ戦線へ抽出し、兵力は宮崎繁三郎中将の率いる第五四師団のみとなっていたが、アラカン山脈へ後退しつつ抵抗を続けた。

 空爆で 見る影もなき タンガップ

     秘境の里を 乱すとが人


 国の為 三度召されて 来たビルマ

  アラカン越えれば 修羅の餓鬼道

野末の露より

イラワジ会戦・メイクテーラ攻防戦

 昭和二十年一月、インパール作戦に敗れた第一五軍はイギリス第一四軍の追撃を受けつつ、ビルマ中部の中心都市マンダレー付近のイラワジ川の線まで後退。米中連合軍がレド公路打通を達成した以上、ビルマの戦略的価値は大きく低下しており、日本軍でもタイ国境まで後退すべきとする意見もあったが、イラワジ川を防衛線としてイギリス軍を機に応じて撃滅するという作戦であった。


  だが、第一五軍の四個師団はそれぞれ実力一個連隊の戦力にまで損耗していた。それをイラワジ川沿いの二〇〇キロ以上の広正面に配置したところで有効な防御戦闘は困難だった。機械化部隊の進撃速度は日本軍の想像を超えおり、メイクテーラは三月三日イギリス軍に制圧されてしまう。


 日本軍はメイクテーラの奪回を図り日本軍はメイクテーラを包囲、肉弾攻撃と夜襲を反復したものの、イギリス軍の機械化部隊に対して、十分な対戦車装備を持たない日本軍は一方的な打撃を被った。三月二十八日、日本軍はメイクテーラ奪回を断念、盤作戦を中止し、第一五軍はシャン高原へ後退した。


 三月二十九日、幸田貢さんはイラワジ河を渡河しミンブにある療養所にあった。

 【イラワジ河を渡りミンブに到着。さっそく民家を利用して病院を開設したが、前線より患者が来るわ、来るわ。夜が更けると、どんどん後送されて来る。創部に全部ウジがわいていて、独特の悪臭を発散する。午後八時頃後送が終わる頃から、そろそろ収容が始まる。やれやれと思った時はすでに、二時、三時である。人間の動ける最大限の日が続いた。四月十九日マグエに敵がはいる。対岸で敵が飛行場を造っているのが見える。状況はいよいよ悪し】

 (野末の露四七頁より)


 イラワジ会戦がビルマ戦における分岐点であり、あえて決戦を強行したことによってビルマ方面軍の破滅を早めてしまったことは、日本軍にとって大きな痛手となった。この後、日本軍は守勢一方でビルマ南部へ強行軍と強いられるのだが、そこでは更に凄惨なる戦場が兵士達を待ち構えていたのである。その後幸田さんの部隊はイラワジでの敗戦により転進をはじめ、強行に継ぐ強行を重ね、イラワジ河を渡河のためプローム対岸を目指す事となった。


 昭和二十年五月一六日、幸田さんはその強行軍の最中、大沢町の『小方三喜夫さん』と逢われている。その際小方さんは、激戦の為か耳が遠くなっており、幸田さんの呼びかけが聞こえなったようである。二言三言で敵機が来襲し、再び行軍を開始されたが、その後小方さんは、四日後の昭和二十年五月二十日に戦没されている。

















レド公路

インドのレドから中国雲南省昆明までを結ぶ道路

連合軍の中国への物資輸送の為に建設。工事は困難を極

め、標高は時に1400mを超え多くの死傷者を出した。

 ことごとに 傷にむらがる うじ虫を

      拂ひ除けば 赤裸々な創



 夜半まで 続く患者の 数多く

     雑炊の火 消ゆるひまなし

野末の露より

プローム街道突破

 イラワジ渡河以降、月末までで日本軍の損害は概算して一万二千九百十三名である。しかし、この後の後退戦において日本軍は、敗戦までに十五万人以上の戦死者を出している。


 昭和二十年五月二十九日、幸田貢さんの部隊は、プローム街道を突破する作戦を開始している。

 【今晩は、プローム街道を突破するのだ。雨の降る中を夜行軍、膝まで入る湿地、腰まであるクリーク、何があっても、唯、進路東に一直線に歩き続ける。突如として高い土手にぶつかった。かき上がって見れば、広い道路だった。敵影なし、早く此の路から離れなければ、又弾の雨が降ってくる。暗夜の強行軍、ひたすら走り続ける湿地の中、心だけが先走り、足が付いて行かない。夢の中で得体の知れない怖いものに追われている様である。】(野末の露五九頁より)


 幸田貢さんと同じくして、稲田勲さんの部隊もプローム街道突破を行われている。稲田さんが所属されていた部隊は、連隊旗を守護する連隊旗小隊であった。軍旗は陸海軍の大元帥たる天皇から直接親授される極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた。それだけに軍旗は神聖視され、軍旗を喪失することは極めて重大な失態と考えられた。弾が四方から飛び交う戦場で稲田さんは、連隊旗をなんとしても死守する為、地面を深く穴を掘り、そこへ連隊旗を収めた箱を地中深く収める事で、命がけで砲弾の爆発から連隊旗を守ろうとされたようである。切り込みや、戦闘の際には最前線をひた走り、味方を鼓舞し、連隊の位置を味方に示す、重要かつ、命がけの部隊である。旗手(連隊旗手)は、新任の少尉か稀に中尉が務め、連隊本部附であった。旗手の要件は品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身であることが求められた。


 プローム街道突破の折、先のイラワジ河渡河を始め、強行に継ぐ強行で、稲田さんは著しく体力を消耗されていた。その為、突破の際行われた切り込みに参加出来ず、多くの戦友の方々を失われた事を、語って下さった。稲田さんご自身は、無事プローム街道を突破されたのだが、憔悴しきった体と戦場の混乱の中で、ご自身がどうやってプローム街道を突破したのか、全く分からないとの事であった。プローム街道を突破後、後続の隊に合流出来たが、稲田さんが所属されていた部隊が壊滅した事を告げられたそうである。


 その後、シッタン作戦に稲田さんは参加されるのだが、厳しい環境下での強行軍によって、靴もなく、衣服は繊維に沿ってボロボロになり、後続の部隊の後ろをついて行くのがやっとであったという。

シッタン作戦『邁作戦』

 第二八軍は、イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系(英語版)に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高五〇〇メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、イギリス軍の作戦行動は不活発となっていたが、第二八軍の食糧の手持ちは七月末が限界となっていた。


 ペグー山系において、幸田貢さんや稲田勲さん所属の五四師団は、来るシッタン作戦に向け、シッタン河付近の敵状偵察や、糧抹収集に奔走されるわけだが、昭和二十年六月十五日に、大沢町の『西春治さん』と逢われ、更に『和田一夫さん』の体調不良に関する報も得られていた。

 【「幸田曹長殿面会です」「何、幽霊でも来たか」と、下から上がってきたのは、同郷の西春治君だった。「おヽ、お前もこんな所へ来とったんか、此処がようわかったな」「ずっと向こうから、出会う人毎に尋ねて来ました。発熱し、落伍して部隊へ追及中です。誠にすみませんが、マラリアの薬を持って居られたら、少し頂けませんか」と言う訳で、硫キとヒノラミンを入れた二〇〇㏄の瓶一本を渡した。「有難う、これだけあれば助かります。連れが待っていますから」「集結地はもう二粁先だ。元気でやれよ」と見送る。

 二野戦が近くに居て、同郷の和田兵長がアメーバ赤痢で弱っていると聞いたので、一寸見舞いに行こうと思っていたら、「下士官集合」の声がする。】(野末の露六二頁)


 その後、幸田さんは糧抹収集の為にペグー山系を元来た道を下り始めるが、後続部隊より、敵が付近一帯に進出し、食料を全て焼き払ってしまっているとの報を受け愕然とする。その為、藪の中に入り、自生している筍、柔らかい木や草等、柔らかいものを手当たり次第にとって食べ何とか食を繋がれていた。そして、このペグー山系において、昭和二十年六月十五日、和田一夫さんが赤痢により病没されたとの報を幸田さんは受けられている。

 背負い来し 米も塩をも 尽き果てヽ

   野草を焚きて 露命しのがむ

野末の露より

 七月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第二八軍は敵中突破を行いシャン高原を目指す、シッタン作戦(邁作戦)を計画する。


 闇にまぎれてペグー山系を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第三三軍は川を越えて第七インド師団へ牽制攻撃をかけた。戦いは胸の高さまで達する泥水の中で行われた。


  七月下旬、第二八軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。

 【八月九日 部隊が出発して間もなく、手榴弾の爆発音。一寸見て来ると二ー三名が引き返した。「吉田上等兵が自決しておりました。」我が部隊最初の自決者である。歩きながら、心に手を合わせ、合掌する。

】(野末の露六八頁)


 部隊が出発後しばらくしてからの自決。これは、手榴弾による自決の際に生じる爆発音により、部隊の存在を敵兵に悟られない為に、時間をおいて自決する。日本軍人は、死後に至るまでも仲間を想い、自決するのである。こういった自決行為は、以後の行軍中に頻繁に行われ、朝部隊が出発し一時間程すると、手榴弾の連続音が聞こえたそうである。


 すでにビルマの主要部分は敵の支配下に落ち、このシッタン平野も英印軍に制圧されており、敵の勢力丁にある地帯を突破する悲壮な作戦である。シッタン河渡河は、日本軍にとり最大の難関であり、決死の大作戦であった。世界の戦史に末長く残る極めて稀な激しい渡河作戦であったといえる。


 渡河した将兵のほとんどは竹の筏に装具を乗せ、四、五人で組になり筏につかまり泳いて渡ったのである。それも夜の闇にまぎれての行動である。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第二八軍は三万四千名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は一万五千名に過ぎなかった。シッタン河下流に陣していた兵士によれば「毎日毎日おびただしい屍が筏と共に流れてきて、禿鷹が舞い降りて屍の肉を食べ、その惨状は実に目を覆うものがあった」「河口付近は満潮で筏か海に流れず溜まり、死者の腐臭が一帯に充満していた」とあり、悲惨の極みというほかはなかった。

 幾百の 戦友を流して 返し来ぬ

    永久に忘れむ シッタンの河

野末の露より

 また、そこを無事渡河出来たとしても、シャン高原の迷宮が兵士達を待ち構えているのである。激しい高低差に加え、熱帯雨林のジャングルが方向感覚を狂わせ、補給も無く、日毎に痩せ衰えて行く兵士たちの体力を過酷な環境が更に削ぎ落す。地図はあてにならず、行っては帰り、帰っては又行く。来る日も来る日もそれの繰り返しであった。そこに追い打ちをかけるように、デング熱やアメーバ赤痢といった病魔が、皮と骨のみとなった兵士を襲い、幸田さんご自身もデング熱に侵され、幽明の境を歩かれたのである。


 昭和二十年八月十五日、日本は正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止されたわけだが、ビルマを始め多くの前線は日本降伏の報を知る由もなかった。幸田さんもまた、八月十五日には未だシャン高原において、多くの戦友が死を迎える中、行軍を行われている。

 八月十九日、幸田さんの部隊は師団集結場所のイワガレに到着された。

 【西春治君、此の地「イワガレの露と消えた」と後日聞く。もう一週間ガンバってほしかった。冥福を祈る。】

 (野末の露八四頁)


 西春治さんは、終戦まで後数日と迫った、昭和二十年八月四日に戦没されている。西春治さんの様に、終戦間際、そして終戦後もその報を知らずに、幾多の方々が戦場でその命を野末の露と消えている。


 そして、終戦から二週間近く経った昭和二十年八月二十七日、幸田さんは終戦の報をミランセダイクにて受ける事となる。


 ビルマ撤退戦では、連合軍からの攻撃に依る戦死はさることながら、ビルマの過酷な自然環境に晒され、多くの日本人兵士の尊い命が失われている。イラワジ渡河以降、三月末まで、日本軍の損害は概算して一万二千九百十三名になる。しかし、この後の一連の後退戦において日本軍は、敗戦までに十五万人以上の戦死者を出している。

 四百余里 敵中突破 先着の

     戦友の迎えに 涙あふるる

野末の露より

西春治さん肖像


 また、そこを無事渡河出来たとしても、シャン高原の迷宮が兵士達を待ち構えているのである。激しい高低差に加え、熱帯雨林のジャングルが方向感覚を狂わせ、補給も無く、日毎に痩せ衰えて行く兵士たちの体力を過酷な環境が更に削ぎ落す。地図はあてにならず、行っては帰り、帰っては又行く。来る日も来る日もそれの繰り返しであった。そこに追い打ちをかけるように、デング熱やアメーバ赤痢といった病魔が、皮と骨のみとなった兵士を襲い、幸田さんご自身もデング熱に侵され、幽明の境を歩かれたのである。

 

 昭和二十年八月十五日、日本は正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止されたわけだが、ビルマを始め多くの前線は日本降伏の報を知る由もなかった。幸田さんもまた、八月十五日には未だシャン高原において、多くの戦友が死を迎える中、行軍を行われている。

 八月十九日、幸田さんの部隊は師団集結場所のイワガレに到着された。

 【西春治君、此の地「イワガレの露と消えた」と後日聞く。もう一週間ガンバってほしかった。冥福を祈る。】

 (野末の露八四頁)

 

 西春治さんは、終戦まで後数日と迫った、昭和二十年八月四日に戦没されている。西春治さんの様に、終戦間際、そして終戦後もその報を知らずに、幾多の方々が戦場でその命を野末の露と消えている。

 

 そして、終戦から二週間近く経った昭和二十年八月二十七日、幸田さんは終戦の報をミランセダイクにて受ける事となる。

 

 ビルマ撤退戦では、連合軍からの攻撃に依る戦死はさることながら、ビルマの過酷な自然環境に晒され、多くの日本人兵士の尊い命が失われている。イラワジ渡河以降、三月末まで、日本軍の損害は概算して一万二千九百十三名になる。しかし、この後の一連の後退戦において日本軍は、敗戦までに十五万人以上の戦死者を出している。

ペグー山系における検証図で戦没された方々の戦没地推定地を図式化したもの

戦後70周年祈念冊子

伝えたい、大沢町出征兵士からのメッセージ
伝えたい、大沢町出征兵士からのメッセージ

大沢町 慰霊アルバム

慰霊祭動画 合唱

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